Try IT(トライイット)のイギリスが東南アジアを植民地化するわけは?の映像授業ページです。Try IT(トライイット)は、実力派講師陣による永久0円の映像授業サービスです。更に、スマホを振る(トライイットする)ことにより「わからない」をなくすことが出来ます。全く新しい形の映像授業で日々の勉強の「わからない」を解決してください! 三国人は漏れなく植民地にされ、搾取されたが日本は例外であった。 国が小さく魅力がなかったのであれば、フィリッピンや東南アジアの 国々は日本より遥かに小さいが、日本が解放してやるまで植民地にされた。 1002コメント ; 400KB; 全部; 前100; 次100; 最新50; ★スマホ版★; 掲示板に戻る ★ULA版★; このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています. 着々と植民地を拡大していった戦前の日本は、日中戦争・太平洋戦争を遂行していくうえで、「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」という戦争遂行の大義名分を打ち出しました。, 本項では、東アジアを解放するというスローガンのもと、建設されていく大東亜共栄圏とはどのようなものだったのか、概観します。. 民族主義者が前近代的制度や旧来の慣習をあるべき姿として理想化し植民地当局がすすめる「近代化=文明化」を帝国主義的と批判するなか、「近代化」を支持することは難しい。知識人のなかではこうした矛盾に苦しんだものも多いと考えられる。こうしたなかで本書第三部の建築家たちがだした結論が、文明化の中から欧米化のみを純化し、日本的価値観で解釈された近代化=文明化からの自立をはかる方向であった。近代科学の手法で朝鮮語や文化の研究をすすめ、「文明」の立場から合法的に日本統治に疑問を呈する動きもでてくる。しかしそれはつねに植民地当局の手中にいれられる危険性をもつものでもあった。 日本は、冒頭の地図のように、朝鮮半島や台湾などを植民地にして支配しました。朝鮮は実に36年物長きにわたって大日本帝国に植民地にされました。 また、日本は中国大陸や東南アジア、太平洋の島々などをこれだけ侵略しました。日本列島の何十倍も版図を広げているのに、日本が、どこの国を侵略したと言えない安倍首相は、この状態をなんと認識しているの? しかし、ここが植民地であり、植民者が「一旗あげる」ことをめざしていた以上、とくに下層階級の日本人は支配者=日本人であることの特権を利用しようするものも多かったと考えられる。こうしたことは総督府の意図を超えて朝鮮民衆との摩擦を強めることになったと思われる。, なお、下層民が植民の中心となるという構図はフィリピンなどへの南方移民などにも似た傾向が見られる。, 1909年から1919年までの移住者は、「娼婦『からゆきさん』、道路工夫、農夫、大工、木挽・杣職、漁民、商人」であり、マニラの日本人外交官からみても「日本の移民としてふさわしい存在ではなかった」とされる、そのようすは「なかには賭博酒におぼれるものもおり」「半裸体であった」など「フィリピン人の尊敬の対象とはならなかった」(早瀬晋三「南方『移民』と『南進』」『近代日本と植民地5』1993), こうした記述は本書の記述と共通する点を持ち、「南方移民」と朝鮮への植民者の階層的同一性を示唆している。, 第三部は建築物・建築家の考え方、都市計画を通して、東アジアにおける近代化を考える内容となっている。象徴的な文章を引用する。 「韓国は、日本と戦って自分たちの力で独立を達成できなかった」 これが現在に続く韓国人の反日感情の「原点」なんだろう。ヨーロッパの国に植民地支配されていた東南アジアの国々とは、この原点がちがう。ベトナムやラオスなどは、戦いによって自ら独立を勝ちとっている。これが、東南アジアのヨーロッパの国々に対する感情の原点になっている (日)日本領 1867 1896 1858 1819 1825 1813 1863 1888 1844 1860 1898(米) 1565(ス) 1887 1863 1886 1893 1887 1842 1895 太 平 洋 洋 南 シ ナ 海 イ ン ド 0 500km オランダ領(オ) フランス領(仏) アメリカ領(米) イギリス領(英) イギリス保護領 イギリス海峡植民地 数字 宗主国による獲得年 東南アジア全域の植民地 「高等世界史B 新訂版」p.271 - 8 - - 9 しかし別の部分では「創氏改名」や天皇崇拝について「このように民族固有の文化を無視して日本文化を押しつけた」とも記述する。 当時の東南アジアの輸出品目がどうなっていた か。1929年と37年のデータを抜き出し、6地 域について輸出額のシェアを%で 表示した。ここ でマレーとしたのは、当時の呼び名ではマレー連合州および非連合州と海峡植民地、この3っ を足した地域のことである。 こうしたなか日本はいちはやく欧米列強による近代化=文明化を受容する。「屈辱感」をバネに欧米近代文明を導入し、欧米的な近代国家を志向、「富国強兵」政策をすすめる。  ②住民構成  ③その人口増加は多数の移民による、 東南アジアも欧米列強の圧倒的な力の前に屈服し、その影響下に近代化=欧米化を進めた。ただ接触の時期は大きく異なる。 (フランス領インドシナでの搾取:wikiより) 大航海時代が到来すると、ヨーロッパ諸国の船が東南アジアに来航するようになりました。1511年、ポルトガルはマラッカを占領し海峡を支配します。1641年にはオランダが、ポルトガルからマラッカ海峡の支配権を奪い取りました。 19世紀に入り、イギリスがマラッカ周辺に進出します。1819年、イギリスはシンガポールを買収し貿易港を作りました。このとき、イギリスはオランダと協定を結びます。協定によりイギリスはマラッカ海峡以北のマレー半島を、オ … 評者は、欧米の植民地都市の植民者が支配層に偏在していたことと異なり、日本の植民地都市においては内地の都市構造が下層社会をもふくみこんだ形で持ち込まれたと理解したい。 東南アジアで美人が多い国6選! 日本人ウケして日本人もモテる国は? 東南アジアといえば、顔立ちが日本人と同じで親しみがわきやすいですね! そんな東南アジアで美人が多い国はどこか、日本人というだけで持てる国ってどこなのか興 […] 植民地期朝鮮の代表的な建築家が総督府とも関係をもちつつ、日本風の洋風建築ではなく、「純粋な洋風建築」をめざしたことにかかわっての記述である。, この時期の朝鮮人の思想や行動は、単純に親日・反日という軸だけではとらえられない多面性を持っていた。それをいっそう複雑にしたのが、近代化への対応の姿勢だった。近代という時代の産物として現れた科学技術や政治制度などのなかには、人類にとって普遍的にプラスの価値を持つものが少なくない。したがって、植民地という状況の下でも、こうした近代化のプラス面への志向を否定することは難しい(中略)   こうしたものではあったが、「近代化」が進むなかで「遅れたアジア、進んだ日本」という自己認識が芽生え、日本版「小中華」思想が真実であるかのように見え始める。日本こそが「欧米化」「文明化」をすすめる近代国家のモデルであるとして、他の東アジア諸民族への優越感が生まれ、アジアのリーダーとして欧米勢力と対抗してアジアの文明化を領導することで遅れたアジア諸民族を救うのだという意識もうみだす。, 他方、日本のようなドラスティックな改革がなされなかった民族、とくに朝鮮では厳しい対立が生じた。 日本軍の占領地で高揚した東南・南アジアの民族運動 第二次世界大戦後、世界中で 民族運動の活発化 や 植民地の独立 が起こった。 台湾については朝鮮以上に長い50年にも渡り日本の植民地でしたが、とても親日です。これはなぜでしょうか。 台湾はもともとマレーポリネシア系の先住民が住んでいたところに、17世紀以降に(台湾の対岸にある)福建省を中心とした漢人が移住しました。 日本が統治を始めた19世紀末の時点では、漢人系の住民は(福建省の言語が変化した)台湾語や客家語を話し、先住民はそれぞれの民族言語を話し、お互いに全く通じないという状況でした。 50年間の日本の植民地統治を通じてインフラが整備され、 … 15世紀のヨーロッパでは大航海時代に入り、多くの探検家が新たな土地を発見しました。このとき、ヨーロッパの人々は新大陸にある資源を獲得することが活発に起こりました。 このとき、武力によって強制的に土地が略奪され、銀や香辛料といった資源がヨーロッパに送られることになりました。このように、武力によって奪われた国を植民地と呼びます。また、植民地を統治している国のことを宗主国と呼びます。 植民地をたくさん持っていると、資源を調達できたり、労働力を獲得できたりと宗主国に … 東南アジア10か国から成るasean(東南アジア諸国連合)と日本は,30年以上にわたりアジア地域の平和と安定,発展と繁栄のために協力関係を築いてきました。2010年10月末には,第13回日・asean首脳会議がハノイで開催されます。今回は日本との協力関係を中心に,aseanの意義と役割について考えます。 上の地図を見るとタイは植民地支配を受けていないことがわかります。また、タイを境にイギリスとフランスが植民地支配しているという形になっています。 これはイギリスとフランスが条約を結んでタイは両国とも支配しないということを決めました。このように、大国の間やその植民地間にあり、衝突を防ぐ役割をす 中世の大航海時代から始まった西洋による植民地政策。19世紀後半から20世紀前半にかけては、いわゆる列強によりアフリカやアジアの多くの国が植民地となった。中国も多くの土地を列強に分割されたが、日本が植民地化されることはなかった。 Amazonで川中 豪, 川村晃一の教養の東南アジア現代史。アマゾンならポイント還元本が多数。川中 豪, 川村晃一作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また教養の東南アジア現代史もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 しかしリアルな「近代」は「互酬」関係に立つ共同体や支配者との間での「略取と再分配」というある種の社会契約によって生存・生活保障を維持していた前近代の「安穏」な生活を破壊し、すべてを貨幣におきかえようという衝動によって動かされる時代へ移行することである。人々は、これまで使用できた土地を失い、助け合って生きてきた人間関係も破壊されていく。そして「労働力しか売るもののない」プロレタリアートが形成される過程である。 こうした近代の持つ多義性のなかで「植民地の近代」を考える必要がある。, なお、本書のなかで気になる点がある。第二部の引用部の日本と植民地の間の「同質性」という用語である。著者は十分な説明もないまま、P・ドゥスの「地理的に隣接し、基本的な文化的特徴を日本と共通するところが多くある地域に帝国主義的支配を及ぼした」という結論を肯定的に紹介する。別のところでも「日本の支配政策は基本的に同化主義で進められた」と記し「その理由は、すでに述べたように、日本の植民地が本国と同じ東アジア世界にあり、文化や経済構造が日本と同質であったことが一因である」と述べる。 「アジアにとっての近代化とは西洋化と同義であり、そこに伝統との継承性や融和を持ち込むことは至難の業だった」としるす。, 本書第一部では、日本の植民地は その結果、植民地都市は  しかしこうした過程こそが資本主義を定着させる条件をつくり、近代社会形成のインフラ整備となっていった。こうした動きが定着していくと、部分的ではあれ、近代の恩恵を受ける人々も現れる。日本から工場進出は朝鮮人を労働者にかえていく。生産力の向上は生活向上につながり、教育制度の整備は識字率を着実に上昇させる。そこで学んだ知識はさまざまな部分に応用され、自由主義や民主主義といった抵抗の「武器」をうみだす手段ともなる。著者の言う「近代のもつ普遍的価値をもつ」という側面である。, こうして帝国主義は自らの利益拡大のために植民地に「近代」を強要するが、その「近代」がより困難な対抗者を創り出していく。 「世界=経済」への包摂は東アジアの諸民族の間に強い屈辱感とストレスを生み出す一方、未解決のままになっている前近代的で抑圧的なシステムや古い価値観などの矛盾を自覚させる。そのなかから「近代化」をすすめることが社会の矛盾の解決につながるとの考えも生じた。   日本の歴史学界では朝鮮植民地への謝罪意識と日本帝国主義批判から、韓国では日本の植民地支配への怒りから、「土地調査事業」などの改革は植民地統治の負の側面として見なしてきた。たしかに政策実施の各段階では日本と植民者に有利な運用がなされたし、実施に際しては軍隊の暴力にも依存していた。そもそも現地の事情を無視した強要であったのであるから、こうした評価も妥当である。 という観点から論じる。 著者はこのように植民地都市の受け入れ側の弱さを指摘するが、こうした指摘は疑問である。こうした事態は資本主義形成期に一般的な出来事であるとおもわれる。  宗主国は利益を拡大し支配を効率化するために植民地に近代資本主義のシステムを使いやすく改変しつつ、軍隊という暴力装置の手もかりながら導入する。こうして植民地の持つ害悪と近代化の害悪が相乗効果を持って、前近代的秩序のなかいる人たちのうえに押し寄せる。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 植民地の形成過程はこちら ➡ 日本の植民地と勢力圏(1)-戦前日本の植民地はどのようにつくられたか(概要), 1937(昭和12)年7月7日に起きた「盧溝橋事件」に端を発した日中の武力衝突は、全面戦争となり、泥沼の様相を見せ始めていました※。, 1938(昭和13)年末、近衛文麿首相は戦争の目的が日本・満州・中華民国(日・満・華)の三国連帯による「東亜新秩序」建設にあることを声明しました。, 1年以上前に突如始まったこの戦争の目的を、この頃になってあらためて日本側が表明したのは、ヨーロッパでの危機的状況を背景に、イギリスの対アジア政策が軟化したため、中国内部の親日勢力を引き出して対中国支配確立の好機と捉えたからです。, ※日中開戦の経緯は ➡ 日中戦争への道(3)-泥沼の死闘へ「盧溝橋事件」と「第二次上海事変」, 1930年代末から姓名を日本風に改める「創氏改名」(そうしかいめい)が強制され、同化政策が強められた朝鮮では、太平洋戦争開戦後日本の支配が過酷さを増しました。, 労働力不足を補うために労働者が日本本土へ強制的に連行され、戦争末期には徴兵制も適用されました。数十万人の朝鮮人や占領地域の中国人を日本本土などに強制連行し、鉱山や土木工事現場などで働かせました。, 朝鮮においては、中国大陸進出における物資や人の補給・中継地点として「大陸兵站(へいたん)基地化」と、内地(日本本土)との完全な一体化を意味する「内鮮一体化」(ないせんいったいか)が方針として掲げられました。, 台湾においては、「皇民化」「工業化」「南進基地化」という三大標語が掲げられ、日本の工業生産に資すること、そして南方への進出のための基地として発展させることが方針になりました。, 日中戦争開始以来、日本の必要とする軍需産業用の資材は、植民地を含む日本の領土や、満州及び中国における占領地からなる経済圏の中だけでは到底足りず、欧米とその勢力圏からの輸入に頼らなければならない状態にありました。, しかしアメリカは、アジア・北太平洋地域との自由な交易関係の維持を重要な国益と認識していたため、日本が東亜新秩序形成に乗り出すと、これを自らの東アジア政策への本格的な挑戦とみなし、日米間の貿易額も減少し始めました。, ヨーロッパでドイツが圧倒的に優勢となり、イギリスだけが抵抗を続けている状態になると、日本では陸軍を中心にドイツとの結びつきを強め、対アメリカ・イギリスとの戦争を覚悟のうえで欧米の植民地である南方に進出し、「大東亜共栄圏」の建設をはかり、石油・ゴム・ボーキサイトなどの資源を求めようという主張が急速に高まりました。, そして日本は、資源不足から早期に開戦する必要に迫られ、アメリカとの交渉も決裂と判断、ついに1941(昭和16)年12月8日、マレー半島へ上陸すると同時にハワイへ奇襲攻撃を行い、太平洋戦争が始まります。, 開戦当初破竹の勢いでアジアを手中に収めた日本軍は、占領地域で日本の意のままに動く政府や勢力を作り、各地を支配しました。フィリピン、ビルマ(現在のミャンマー)では親日政権を成立させ、インドネシアでは親日組織を作らせました。インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジアのあたり)、タイには、日本との協力を声明させました。, 不足する日本軍兵力を補うため、朝鮮では1943年、台湾では1944年に徴兵制が施行されました。しかし、すでに1938年に志願兵制度が導入され、植民地からも兵士を募集していました。, また戦地に設置された「慰安施設」には朝鮮、中国、フィリピンなどから女性が集められました。, 東南アジアの占領地では、当初日本を欧米諸国の植民地支配からの解放者として迎えたところもありました。しかし、日本の占領目的は主として資源収奪とそれに必要な治安確保でした。軍政のもとで現地の文化や生活様式を無視し、日本語教育や天皇崇拝・神社参拝の強制など、「皇民化」政策が採られました。支配各地に神社や祠(ほこら)が設けられ、終戦時における海外神社数は約600社、より小規模の祠を含めた総数では1600に上ります。, 連合軍との戦況が悪化する一方の1943(昭和18)年11月、東条内閣は占領地域の戦争協力を確保するため、東京で「大東亜会議」を開催。これは、満州国や中国(南京)の汪兆銘政権、タイ、ビルマ、自由インド、フィリピンなどの代表者を東京に集め、大東亜共栄圏の結束を誇示するものでした。, また、面積を割合で示すと、以下のように、中国や南方圏の傀儡政権・支配地域・勢力圏が帝国そのもの(日本本土・朝鮮半島・台湾・南部樺太・千島列島・南洋諸島)よりも圧倒的に大きいものでした。, シンガポールやマレー半島、フィリピンでは住民への残虐行為や捕虜を含む強制労働が多発しました。, タイとビルマを結ぶ「泰緬(たいめん)鉄道」の建設では、劣悪な労働環境のもと、過酷な労働を連日強いられた結果、数万人が命を落としました。, また、占領地の各地で土木作業や鉱山労働への強制動員が行われました。シンガポールやマレーシアでは、日本軍が多数の中国系住民(華僑)を反日活動の容疑で虐殺するという事件も発生。, このようなことが積み重なり、住民の激しい反感を呼び、日本軍は各地で抵抗運動に直面しました。, そして日本が去った後、再び植民地の宗主国として戻ってきた欧米諸国に対し、アジア諸国は民族解放運動に立ち上がりました。, 植民地の本国軍と戦って独立を勝ち取ったことで、結果的にアジアにおける欧米の植民地支配は一掃されました。, 日本はアジアから欧米列国を追い出した側面と、自らの国家目標達成のために圧政を加えた支配者としての、二つの側面を持っていました。, 本項は「詳説日本史B(山川出版社)」「詳説世界史B 81 世B 304 文部科学省検定済教科書 高等学校 地理歴史科用」「「大東亜共栄圏」経済史研究」を元に構成しました。, 「「大東亜共栄圏」経済史研究」は、大東亜共栄圏を主に経済的な観点から分析しています。冒頭に大東亜共栄圏の全体的な解説があり、その歴史的な起こりと政治的な特徴を分析しています。その後、各種統計資料を駆使し、貿易、金融、所得の観点から分析します。大東亜共栄圏の経済的側面を掘り下げて考えたい方は必須の一冊と言えるでしょう。以下の画像やリンクをクリックでAmazonまたは楽天で購入できます。, ⇐ 日本の植民地と勢力圏(1)-戦前日本の植民地はどのようにつくられたか(概要)へ戻る, photo: wikimedia, public domainアイキャッチ画像:テニアン島に残る神社, このwebサイトの先進的な機能は、ブラウザーのJavaScriptを有効にする必要があります。Thank you!. 以下、こうした評者の興味を中心に本書の内容にふれながら記していきたい。, 東アジアにおける近代は、19世紀以降、華夷秩序のなかにあった東アジアの中華帝国という秩序が、欧米列強がおしすすめる「世界=経済」の枠内に組み込まれ、変容を余儀なくされた過程としてとらえることができる。 日本は戦時中にアジア諸国を植民地化した歴史がありますが、中国や韓国は日本の「侵略」に対する謝罪を繰り返し求めているのに対し、台湾や東南アジアは親日的とされています。この歴史認識の差がどこから来るのか、地域別に整理してみたいと思います。 評者としては、本書での成果に学びながら日本の近代と朝鮮や台湾さらには琉球の近代を比較しつつ全体として把握する方向を考えて見たいと思い、その一端を記した。さらに、本書で十分な説明のないまま記された日本と東アジアの「同質性」と「異質」について検討をしていきたいと考える。, 「植民地帝国日本が支配したアジア都市の具体的姿を描」くことを通して、日本の植民地支配の特徴と問題点を浮き彫りにして、「今日の日本とアジアの人々の歴史認識のギャップを埋め」さらに「日本も含めたアジア諸国が近代になって直面した共通する困難な問題、つまり伝統と近代の葛藤、東洋と西洋の軋轢などの問題を考えていく手がかり」を得ようとした, アジアにとっての近代化とは西洋化と同義であり、そこに伝統との継承性や融和を持ち込むことは至難の業だった, 首位都市への集中」「過剰都市化」「都市非公式部門の存在」という第二次大戦後の途上国の都市と同様の特徴, 本国で重化学工業化が進む一九三〇年代の紡織業、戦時統制経済の進行にかかわる「兵站基地」化でこうした動きが進んだ, 受け入れる都市側で、工業部門などの労働力需要が不十分なため、流出した膨大な農村人口は都市非公式部門の雑業層として滞留せざるを得なかった, 日本の植民地は本国と距離的に近く、自然条件・文化・社会構造など本国との同質性が強かった。, したがって植民地に大量の日本人が移住し、都市人口の中で日本人が高い比重を占めただけでなく、農村にもかなりの日本, が居住していた。そして都市在住者には植民地支配人(官吏・軍人)だけでなく商工業や無職のものも多く、女子の比率も高かった。その意味では、本国の都市と同じような日本人社会を形成していた点が日本の植民地の特徴だといえる。(P69), 日本社会はそのまま持ち込まれやすく、現地の人々が作り出す空間とは異質の断絶された空間が形成された。, (さらには植民地では、植民者としての優越的地位を得られる、低い地位に置かれている自分たちのさらに低い人々がいるとの思いが彼らを引き寄せたとも考えられる。), 日本社会は一つのパッケージとして植民地都市に導入され、現地住民とは関わりなしに生きていくことも可能な異質の断絶された空間をつくりだした。, 欧米の植民地都市の植民者が支配層に偏在していたことと異なり、日本の植民地都市においては内地の都市構造が下層社会をもふくみこんだ形で持ち込まれた, 植民地期朝鮮の代表的な建築家が総督府とも関係をもちつつ、日本風の洋風建築ではなく、「純粋な洋風建築」をめざした, この時期の朝鮮人の思想や行動は、単純に親日・反日という軸だけではとらえられない多面性を持っていた。それをいっそう複雑にしたのが、近代化への対応の姿勢だった。近代という時代の産物として現れた科学技術や政治制度などのなかには、人類にとって普遍的にプラスの価値を持つものが少なくない。したがって、植民地という状況の下でも、こうした近代化のプラス面への志向を否定することは難しい(中略), しかし同時に、アジア社会にとって、近代化は西洋化を意味していた。その結果、当然ながら伝統文化と近代文化の対立と葛藤が生まれ、それに悩まされることとなった。さらにその西洋化=近代化が、侵略者日本を経由して導入されたという、二重の意味で否定的な側面を持っていた。(P140~141), 植民地において近代化=文明化を図ろうとすれば、支配者である「日本」から学ばざるを得ない側面を持つ。, それは日本の優越性を認めるかの如き「屈辱」の側面を持つ。「日本」の支配を否定し、ともすれば前近代的・非合理主義的で身分制的文化を民族的として「抵抗の手段」とする側からすれば「親日」「売国」とみなされうる。, 東アジアの「近代化」そして「植民地の近代」ということについてトータルにとらえたい、, 未解決のままになっている前近代的で抑圧的なシステムや古い価値観などの矛盾を自覚させる。そのなかから「近代化」をすすめることが社会の矛盾の解決につながるとの考えも生じた。, こうしたなか日本はいちはやく欧米列強による近代化=文明化を受容する。「屈辱感」をバネに欧米近代文明を導入し、欧米的な近代国家を志向、「富国強兵」政策をすすめる。, グローバルスタンダードとしての主権国家体制への参入ではあったが、同時に華夷秩序を日本的にアレンジした「小中華」思想をも混じえた独特の近代化の性格を持たざるを得なかった。, こうしたものではあったが、「近代化」が進むなかで「遅れたアジア、進んだ日本」という自己認識が芽生え、日本版「小中華」思想が真実であるかのように見え始める。, 日本こそが「欧米化」「文明化」をすすめる近代国家のモデルであるとして、他の東アジア諸民族への優越感が生まれ、アジアのリーダーとして欧米勢力と対抗してアジアの文明化を領導することで遅れたアジア諸民族を救うのだという意識もうみだす。, 他方、日本のようなドラスティックな改革がなされなかった民族、とくに朝鮮では厳しい対立が生じた。, 旧来の体制の問題性を自覚し「世界=経済」に対応した変革を求める知識人らと、旧来の権力・秩序の維持を第一とし近代化=欧米化に否定的であったり表面的な「近代化」にとどめようとの勢力との間の対立である。, 前者が近代化のモデル・日本に接近すると、後者は警戒感をもち反発する。日本の接近も近代化もいずれも自らの権力基盤を危うくする可能性を持つからである。, 日本の歴史学界では朝鮮植民地への謝罪意識と日本帝国主義批判から、韓国では日本の植民地支配への怒りから、「土地調査事業」などの改革は植民地統治の負の側面として見なしてきた。たしかに政策実施の各段階では日本と植民者に有利な運用がなされたし、実施に際しては軍隊の暴力にも依存していた。そもそも現地の事情を無視した強要であったのであるから、こうした評価も妥当である。, 近代的土地所有の確立という方向性は歴史の流れに沿ったものであり、朝鮮の近代化を結果的に促進するものであったことも確かである, 教科書的な叙述をすれば、先進国・途上国をとわず、資本主義形成期には封建的農民身分の解体がすすめられ、農民の多くは土地を失い、流動化し、大量の無産階級(プロレタリアート)が生み出される。, これを日本の「近代化」にあてはめてみる。明治初年の「地租改正」は村内にセーフティーネットを張り巡らした「百姓成立」を第一と考える前近代的な農村秩序を解体し、土地私有が法的に確定された。そして明治10年代の松方デフレ期にその矛盾が爆発し農民層の解体が一挙に進む。, このように日本においても、「近代化」や「文明化」は旧来の秩序や体制のなかで生きていた多くの人々の生活と生き方を直撃し、厳しい摩擦や対立を引き起こしていた。そして多くの犠牲者も生み出した。あるものは農村に過剰人口として滞留して寄生地主制のもとにおかれ、製糸・紡績産業での女工、さらには海外にまで進出することになる娼婦「からゆきさん」の供給源ともなった。, 朝鮮や台湾における「土地調査事業」などの諸改革は、資本主義形成期の矛盾の高まりという共通の視点で、さらには近代化にかかわる摩擦としてとらえる視点が必要ではないか, 著者が途上国との相似性と指摘した「過剰都市化」「都市非公式部門の存在」もこうした歴史的文脈でとらえるべき出来事である。朝鮮半島では農村の過剰人口としておしだされた人々は、あるものは火田民(山岳部で焼き畑農業に従事した)として奥地に向かい、またあるものは中国東北部間島地方やシベリア沿海州、日本列島へ向かい、さらに巨大化しつつあった都市へと流入していった。日本列島と朝鮮半島、若干のタイムラグをもちつつ同様の過程が進行していたととらえることができる。, 土地調査事業に代表される植民地朝鮮での総督府などによってひきおこされた農村や都市における諸問題のなかには近代形成期特有の矛盾が含まれていたととらえることが必要であろうと考える。, 日本帝国主義が、植民地政策と結びつけて日本風にアレンジした近代化=文明化・欧米化をすすめるという構図は、近代化をもとめる植民地の人々とくに知識人を厳しい立場に追い込んだ。異民族である統治者側が「近代=文明化」という価値観を恩恵的に与えるという形式を一定の説得力があるとして支持・協力することは民族主義的な批判の対象となりかねない。こうして「近代=文明化」と民族主義の両立は非常に困難となる。, 日本が近代・文明化という価値を独占し、「遅れた東アジア」の近代化をすすめるというモデル、それが一定の説得力を持つなかですすめられた東アジアの近代化のあり方, 民族主義という大義名分は、民族の過去のなかに誇りを見いだそうという傾向が強いため、身分的・階級的諸矛盾などを軽視し、ときには抑圧する場合もある。, それは植民地支配の問題性と近代化のもつ苦悩(とくに資本主義形成期=資本の本源的蓄積期)の問題性が相乗効果をとって出現することである。, リアルな「近代」は「互酬」関係に立つ共同体や支配者との間での「略取と再分配」というある種の社会契約によって生存・生活保障を維持していた前近代の「安穏」な生活を破壊し、すべてを貨幣におきかえようという衝動によって動かされる時代へ移行することである。人々は、これまで使用できた土地を失い、助け合って生きてきた人間関係も破壊されていく。, 身分からの自由は没落の自由でもあるし、土地(生産手段)からの自由は自分の土地や家屋を失うことである。常に失業→生活・生命の危機に瀕する状態に置かれることでもある。だからこそ、マルクスは資本論でこうした資本の本源的蓄積の過程をキリスト教の「原罪」になぞらえ、「資本はあらゆる毛穴から血と汚物をにじみ出させながら生まれてきた」と記す。, 宗主国は利益を拡大し支配を効率化するために植民地に近代資本主義のシステムを使いやすく改変しつつ、軍隊という暴力装置の手もかりながら導入する。こうして植民地の持つ害悪と近代化の害悪が相乗効果を持って、前近代的秩序のなかいる人たちのうえに押し寄せる。, 近代化へのストレスは、政策を自分たちの意見を聞かないまま強行に推し進める異民族への憎しみともあいまって強まっていく。こうして民族運動は反近代運動の要素も組み込んでいく。, しかしこうした過程こそが資本主義を定着させる条件をつくり、近代社会形成のインフラ整備となっていった。こうした動きが定着していくと、部分的ではあれ、近代の恩恵を受ける人々も現れる。日本から工場進出は朝鮮人を労働者にかえていく。生産力の向上は生活向上につながり、教育制度の整備は識字率を着実に上昇させる。そこで学んだ知識はさまざまな部分に応用され、自由主義や民主主義といった抵抗の「武器」をうみだす手段ともなる。著者の言う「近代のもつ普遍的価値をもつ」という側面である。, こうして帝国主義は自らの利益拡大のために植民地に「近代」を強要するが、その「近代」がより困難な対抗者を創り出していく。, 地理的に隣接し、基本的な文化的特徴を日本と共通するところが多くある地域に帝国主義的支配を及ぼした, その理由は、すでに述べたように、日本の植民地が本国と同じ東アジア世界にあり、文化や経済構造が日本と同質であったことが一因である, 日本と植民地の「同質性」はどこにあり、「異質」の部分はどこにあるのか、より丁寧に説明すべきであろう, 欧米列強の圧倒的な力の前に屈服し、その影響下に近代化=欧米化を進めた。ただ接触の時期は大きく異なる。, 日本が独立を維持し主体性をもって欧米化を進められたのにたいし、タイを除く東南アジアは欧米の植民地とされた, 近代化の主導権が宗主国としての欧米諸国に委ねられたことであり、住民は客体にすぎなかった。, 日本は欧米文明を「先進の欧米、それをめざす日本、遅れたアジア」という上下関係の枠組みで受け入れたが、, 「先進の欧米(アメリカ)、先進国の植民地フィリピン、そして欧米文明が十分に伝わっていない他のアジア」という序列, Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます). 「文明開化」にかかわる欧米化の強要も社会の緊張を高め、士族反乱や民衆暴動を引き起こす。 中世の大航海時代から始まった西洋による植民地政策。19世紀後半から20世紀前半にかけては、いわゆる列強によりアフリカやアジアの多くの国が植民地となった。中国も多…(2020年12月3日 … 評者は、日本と植民地の「同質性」を承諾したいがゆえに、残念に思う。こうした同質性と異質性の丁寧な分析、こうしたものも本書をより深めていく内容となると思われる。, 日本の侵略拡大のなかで、日本=近代化=西洋化の担い手という図式が通用しない場面が出現した。, 日本は1940年の北部仏印進駐を手始めに、1941年12月にはじまるアジア太平洋戦争のなか東南アジアの欧米植民地へ次々と侵攻、進駐する。 そして帝国日本の植民地は「首位都市への集中」「過剰都市化」「都市非公式部門の存在」という第二次大戦後の途上国の都市と同様の特徴がみられるという。しかし途上国では首位都市が圧倒的な規模を誇るのに対し、日本の植民地は「首位都市への集中」も見られるものの、「地方都市の発展」も見られたと指摘する。 そこでこの建築家たちが出した回答が日本化された西洋建築でなく、完全な西洋建築にシフトするというものであった。「植民地知識人と近代」という問いへの一つの回答にもみえ、植民地における近代=文明の受容について非常に興味深いエピソードである。, 評者にとって、ここ数年来、頭にあるのは、東アジアの「近代化」そして「植民地の近代」ということについてトータルにとらえたい、日本の近代化を中心におきながら植民地における近代の多義性について考えていきたいということである。 プロローグでかつての植民地都市の現状とアジアにおける近代化の意味を問う。 その理由として、日本による植民地化が日本国内の工業化と同様にすすんだため、本国よりも有利な条件がある場合には、日本資本は植民地での工業化を選んだことを指摘する。 東南アジアの植民地化が進む中で、なぜタイは独立することができたのでしょうか?回答お願いします 日本と同様でタイも高価な資源が有る訳じゃあ無いので植民地支配するだけの意味が有りませんwww侵略するにも支配するにも経費がかかって自国が損するだけですw 朝鮮総督府は、日本の植民地経営を円滑に進める目的(あわせて朝鮮に「文明」をもたらすという主観的な「善意」)から、旧来の土地所有関係を近代的土地所有権に改める「土地調査事業」など「近代」的「合理」的諸改革に着手する。 本書は「植民地帝国日本が支配したアジア都市の具体的姿を描」くことを通して、日本の植民地支配の特徴と問題点を浮き彫りにして、「今日の日本とアジアの人々の歴史認識のギャップを埋め」さらに「日本も含めたアジア諸国が近代になって直面した共通する困難な問題、つまり伝統と近代の葛藤、東洋と西洋の軋轢などの問題を考えていく手がかり」を得ようとした意欲作である。 植民地都市の地図の図版や植民地期の写真 … この点は後ほど検討したい。, 第二部の「植民地都市の住民」では、日本からの大量の移民の存在がその植民地の特徴を生み出したことを記している。 植民地時代の人の移動をめぐる状況を整理することで、冒頭 で述べたような現在の東南アジアにおける人の移動をめぐる問題の構造を理解するため の視点を提示することができるだろう。 第2 節 近代以前の東南アジアにおける人の移動. 日本が獲得しようとした南方資源(浜島書店「新詳日本史」p283) 戦争目的として日本が主張したのは「 欧米列強の帝国主義的植民地支配からアジアを解放し、日本を中心とする新しい国際秩序(「大東亜共栄圏」)を作る 」ということでした。 そのため東南アジアに進出したというのです。 中世の大航海時代から始まった西洋による植民地政策。19世紀後半から20世紀前半にかけては、いわゆる列強によりアフリカやアジアの多くの国が植民地となった。中国も多くの土地を列強に分割されたが、日本が植民地化されることはなかった。(イメージ写真提供:123RF) (村山健二) これにたいし、日本の近代化=欧米化は、日本が独立を維持したまま、日本の事情ですすめられた。象徴的にいうなら日本の近代化=欧米化は「日本語」ですすめられた。欧米の文化は自分たちの論理に置き換えて理解し(一部は曲解もあるが)、日本語(実は漢語であるが)に翻訳された。理解と翻訳は天皇制国家の論理とかかわって、あるときは政府の「反欧米的振る舞い」に対抗すべく、いずれにせよ選択・吟味され、導入された。 第一部「植民地都市の形成」では、日本の植民地と特徴とその下で発展した植民地都市を三つの類型に分類し分析し、いずれの類型も日本人は現地住民とは離れた居住地をもつ二重構造を示していたことをしめす。 とまとめられる。 なお、民族主義という大義名分は、民族の過去のなかに誇りを見いだそうという傾向が強いため、身分的・階級的諸矛盾などを軽視し、ときには抑圧する場合もある。こうした問題を、朝鮮や台湾さらには沖縄、さらに日本の近代化との対比のなかでとらえ直すことも必要である。ナショナリズムと排外主義が東アジアで拡がりをみせる現代においても重要な課題である。, 植民地における近代の特徴とは何か。 ならば、日本と植民地の「同質性」はどこにあり、「異質」の部分はどこにあるのか、より丁寧に説明すべきであろう。 十五年戦争が激化すると、知識人の多くの部分が、日本との同化を主張し、日本人になりきることで、朝鮮の近代化=文明化をはかろうという動きが活発化する。 日本と朝鮮の間の「同質性」といういいかたが、文化面では「日鮮同祖論」、経済面では「アジア的停滞論」「自生的発展論」など、朝鮮史研究における重要な論点にかかわってくるからである。にもかかわらず、この記述はあまりに安易である。 まずおかれていた状況は共通している。  ③多数の日本人が移住した 近代化へのストレスは、政策を自分たちの意見を聞かないまま強行に推し進める異民族への憎しみともあいまって強まっていく。こうして民族運動は反近代運動の要素も組み込んでいく。 日本が獲得しようとした南方資源(浜島書店「新詳日本史」p283) 戦争目的として日本が主張したのは「 欧米列強の帝国主義的植民地支配からアジアを解放し、日本を中心とする新しい国際秩序(「大東亜共栄圏」)を作る 」ということでした。 そのため東南アジアに進出したというのです。 「韓国は、日本と戦って自分たちの力で独立を達成できなかった」 これが現在に続く韓国人の反日感情の「原点」なんだろう。ヨーロッパの国に植民地支配されていた東南アジアの国々とは、この原点がちがう。ベトナムやラオスなどは、戦いによって自ら独立を勝ちとっている。 日本語に翻訳された「欧米文明」は「漢文」という共通の文字文化を通じて、近代化のペースに違いがある朝鮮や台湾、中国にもちこまれた。こうして東アジアにおいて日本は文明の担い手としての権威を得た。朝鮮や台湾などの知識人の悩みはこの権威に対抗しうるものをいかに手に入れるかであった。 都市にでたものは下層社会の中に組み込まれ、人力車夫などの雑業に従事する。こうした都市の下層社会にすむ人々が、日露戦争以後の日比谷焼打事件にはじまり米騒動に到る時期の都市騒擾の中心勢力となる。さらにタコ部屋労働や炭鉱労働という過酷な仕事に従事したり、日清日露戦争での軍夫にも応募したりもする。そのまま朝鮮に残って日本人であることを利用して成り上がろうとするものもいる。日本ではうだつの上がらない状態からの脱出口を海外に求めたのである。朝鮮や台湾に移住したり、さらは南方にも進出、大使が苦々しい顔をする「見苦しい姿」をみせるのもかれらである。 しかしそれは「万世一系の天皇」という前近代的で絶対的な権威をつくり出しつつ、前面に押し出すことで可能となった。グローバルスタンダードとしての主権国家体制への参入ではあったが、同時に華夷秩序を日本的にアレンジした「小中華」思想をも混じえた独特の近代化の性格を持たざるを得なかった。 第二部「支配の構図」では日本帝国主義下の植民地都市の特徴を 身分からの自由は没落の自由でもあるし、土地(生産手段)からの自由は自分の土地や家屋を失うことである。常に失業→生活・生命の危機に瀕する状態に置かれることでもある。だからこそ、マルクスは資本論でこうした資本の本源的蓄積の過程をキリスト教の「原罪」になぞらえ、「資本はあらゆる毛穴から血と汚物をにじみ出させながら生まれてきた」と記す。 東南アジアで植民地になっていない国はタイ .  これを日本の「近代化」にあてはめてみる。明治初年の「地租改正」は村内にセーフティーネットを張り巡らした「百姓成立」を第一と考える前近代的な農村秩序を解体し、土地私有が法的に確定された。そして明治10年代の松方デフレ期にその矛盾が爆発し農民層の解体が一挙に進む。 旧来の体制の問題性を自覚し「世界=経済」に対応した変革を求める知識人らと、旧来の権力・秩序の維持を第一とし近代化=欧米化に否定的であったり表面的な「近代化」にとどめようとの勢力との間の対立である。, 前者が近代化のモデル・日本に接近すると、後者は警戒感をもち反発する。日本の接近も近代化もいずれも自らの権力基盤を危うくする可能性を持つからである。 フィリピンの人々は、こうしたアメリカ化された目で「侵略者」を見た。それはアメリカ人が戯画化した「日本人」そのものであった。日本人は劣等な「東洋人」であり、自分たちの方が「進歩」にあると考えた。日本人の主張を受け入れる余地はなかった。その統治がアメリカとは比べものにならないほど乱暴で傲慢であったことはこうした印象を確信へと導いた。, 激しいゲリラ戦が展開され、日本軍は完全にアウェーとなる。勢い残虐行為もエスカレートし、フィリピン人のさらなる怒りを買う。, 本書は、植民地都市の姿をもとに帝国日本の姿を考えようとした。その結果、さまざまな面から帝国日本の姿が描き出され、植民地における「近代」のあり方に示唆を与えた。とくに植民地都市にすむ日本人植民者の実態、建築において日本的要素を排除して純粋な欧米風建築を建てることのなかに植民地知識人の日本に主導される近代との葛藤を見ようとしたこと、日本によって征服された東南アジアの被征服者が日本をどのようにとらえたということなど、新しい知見を付け加えるものであり、東アジアの近代化、日本の近代化を考えるうえで興味深いものであった、 「同質性」としては、漢字・儒教といった東アジア法文明圏や華夷秩序の枠組み、水田中心の稲作農業、資本主義形成期において前近代社会が「世界=経済」への強制的包括という運命などが候補となるだろう。しかしそれが「同質」の実態なのか、十分な吟味が必要であろう。 本書は 資本主義形成期に大量に発生する反失業状態の人々のなかからハワイや南北アメリカ、東南アジアなどの移民が生まれた。「からゆきさん」たちも「輸出」される。京城や釜山、台北などの植民地都市の日本人地区、さらにはハワイやフィリピン「バギオ国」の日本人社会はこうした人々によって形成されていった。, なおうだつの上がらない現実からの脱却を「日本」の外に求めたのは「貧民」にとどまらない階層の広がりをもっていた。資本主義形成期、近代化の急速な進展は不適応を起こしたり敗れた人々を大量に生み出す一方で、かつての身分秩序にこだわらない「成り上がり」のチャンスを与えるものであった。朝鮮や台湾、さらにはフィリピンなどの南洋はこうした人々にとって、「日本」から逃れ「一旗あげる」ための絶好のフロンティアでもあった。, 朝鮮や台湾における「土地調査事業」などの諸改革は、資本主義形成期の矛盾の高まりという共通の視点で、さらには近代化にかかわる摩擦としてとらえる視点が必要ではないか。, 著者が途上国との相似性と指摘した「過剰都市化」「都市非公式部門の存在」もこうした歴史的文脈でとらえるべき出来事である。朝鮮半島では農村の過剰人口としておしだされた人々は、あるものは火田民(山岳部で焼き畑農業に従事した)として奥地に向かい、またあるものは中国東北部間島地方やシベリア沿海州、日本列島へ向かい、さらに巨大化しつつあった都市へと流入していった。日本列島と朝鮮半島、若干のタイムラグをもちつつ同様の過程が進行していたととらえることができる。  ①本国との距離が近い 近代の日本はなぜ「植民地」になることなく、列強となったのか=中国(サーチナ) 中世の大航海時代から始まった西洋による植民地政策。19世紀後半から20世紀前半にかけては、いわゆる列強によりアフ … 植民者は、その距離の近さからくる移住の気楽さ、「同質性」のため、さまざまな職業・階層の人間が植民地に流れ込み、日本国内の社会構造がもちこまれた。そこには、娼妓といった性奴隷も含まれていた。(さらには植民地では、植民者としての優越的地位を得られる、低い地位に置かれている自分たちのさらに低い人々がいるとの思いが彼らを引き寄せたとも考えられる。)  ②急速な人口増加をみ、 以下、引用する。, 日本の植民地は本国と距離的に近く、自然条件・文化・社会構造など本国との同質性が強かった。 1930年代になると、かつて農村出身の女工で担われていた過酷な労働で知られた日本の紡績産業は、朝鮮半島と沖縄県出身の女工に担われるようになる。 アフリカや中国、インド、東南アジアと比べると、西洋の列強から見れば日本は植民地にする価値があまりなかったということのようだ。 このほか、「日本人自身の努力」も過小評価できず、高い学習能力を発揮して西洋から学んだことも大きく作用したとしている。 記事が指摘した理由のほ� こんにちは! パレ英語村日本事務局です。 先日ご紹介しました「5分でわかるインドネシアの歴史」という動画の中でご紹介もさせていただきましたが、インドネシアの歴史の中で、もっとも象徴的なのが、オランダによる植民地支配です。 インドネシアという国の特徴としてあげられるのが、このチャンネルでも何回も紹介している多民族国家による統一です。  ①都市化のプロセス したがって植民地に大量の日本人が移住し、都市人口の中で日本人が高い比重を占めただけでなく、農村にもかなりの日本(ママ)が居住していた。そして都市在住者には植民地支配人(官吏・軍人)だけでなく商工業や無職のものも多く、女子の比率も高かった。その意味では、本国の都市と同じような日本人社会を形成していた点が日本の植民地の特徴だといえる。(P69), 示唆に満ちた指摘である。「本国との同質性」のゆえに、日本社会はそのまま持ち込まれやすく、現地の人々が作り出す空間とは異質の断絶された空間が形成された。(「同質性」という表現には検討の余地がある。この点も再度検討する) 近代化は日本(・ロシア)への接近、民族の維持は前近代的制度や慣習の温存、という不幸な二者択一へと追い込まれていく。朝鮮の近代化こそ朝鮮のあるべき道であると考え、日本への協力も甘受して断髪などの前近代的風習の改革を図ったが、反対する民衆に殺害された金弘集の悲劇はこうしたなかで生じた。, こうした事態は、日本による朝鮮植民地化によってあらたな段階を迎える。 疑問だけどさ、もし日本がアジアに東南アジアまで拡大していなかったら、東南アジアの国々は植民地から解放されてたのか? いずれは解放されるかもしれない、しかしされないかもしれない。 あの戦争がなかったら今頃東南アジアはどうしているだろうね. しかし、こうした「権威」は漢文文化圏とはいえない多くの東南アジアでは通用しない。  しかし同時に、アジア社会にとって、近代化は西洋化を意味していた。その結果、当然ながら伝統文化と近代文化の対立と葛藤が生まれ、それに悩まされることとなった。さらにその西洋化=近代化が、侵略者日本を経由して導入されたという、二重の意味で否定的な側面を持っていた。(P140~141), 朝鮮において西洋文明は日本を通してもちこまれる。 とくに引用されたフィリピンの歴史家コンスタンティーノの文章が興味深い。, 多くのフィリピン人が出会った日本人は、笑みも浮かべず、謎のようで不吉な『東洋人』であった。それはアメリカ文化で大衆化していた日本人のステレオタイプとそっくりであって、フィリピン人にとっては、とても一体化を感じられる相手ではなかった。西洋化したフィリピン人には、西洋の影響を追放せよという日本人の訴えは馬鹿げたことに聞えた。フィリピン人は、日本人抑圧者に見つけられながらも、なおひそかにこの『東洋人』を見下していたのである。なぜならフィリピン人にとって進歩は西洋化を意味したのだから。(p108~9), もともと東南アジアは東アジアに比べて日本との関係が薄かったうえに、長年の欧米人による支配を受けて東南アジアの人々自身も「半欧米化」してしまっていた。ここを支配するということは、それまでの日本人の植民地体験にない異質な要素を含んでいた。(中略) こうして東アジアでは同質性があるがゆえの無理解と反発が生まれ、東南アジアでは同質性が薄いがゆえの無理解と反発が生まれた。(P109), このまとめはコンスタンティーノの文章の含蓄の深さに比べるとものたりない。 「無国籍的都市空間の誕生」と題したエピローグで 対立が激化し、両者の衝突がおこるなかで、近代的改革を進めることは日本の影響力を強め民族を危機に落としいれる、旧秩序や体制を温存することが「民族的」と見え始める。 そこで日本兵が見たものは植民地における欧米の都市である。そこには明治以来日本人の多くが憧れてきた「欧米」があった。 日本軍の占領地で高揚した東南・南アジアの民族運動【1945年~55年】戦後に始まった植民地からの独立の波は、日本軍の占領地域で高まった民族自決の機運を起点としてアジア諸国から、アフリカ諸国へと波及した。 これにより、あるものは利益を得るが、多くのものは生産と生活の危機に陥る。さらに、近代的な諸制度・文化が前近代を価値のない遅れたものとして駆逐していく。 Try IT(トライイット)のアジア諸地域の植民地化をみる視点の映像授業ページです。Try IT(トライイット)は、実力派講師陣による永久0円の映像授業サービスです。更に、スマホを振る(トライイットする)ことにより「わからない」をなくすことが出来ます。全く新しい形の映像授業で日々の勉強の「わからない」を解決してください! 日本はアジアで植民地支配されなかった数少ない国の1つだ。 「植民地」になったことがない日本、まさに「天の時、地の利、人の和」 引用元:Japan did just fine tho. しかし近代的土地所有の確立という方向性は歴史の流れに沿ったものであり、朝鮮の近代化を結果的に促進するものであったことも確かである。日本帝国主義の苛政として断罪して終わってよいものではない。, 日本統治下、朝鮮半島においても資本主義化が進行する。 こうしたことが植民地都市の性格を決定する。そこでは統治者の空間としての植民地都市がつくられ、そこは欧米風の洗練された町並みとなる。進駐してきた日本軍は、そこに欧米を見た。 フィリピンはカトリックという欧米の宗教を信じ、「民主主義国」アメリカの統治政策によって欧米化=アメリカ化がすすみ、独立運動の歴史を持つ。「文明」「進歩」との自負をもつ。  ②稲作農業や工業など本国に似た経済構造がつくられる 中世の大航海時代から始まった西洋による植民地政策。19世紀後半から20世紀前半にかけては、いわゆる列強によりアフリカやアジアの多くの国が植民地となった。中国も多…(2020年12月3日 22時12分46秒) 先日ある老人と話をしているときに、ふと東南アジアの話になりました。老人は元軍人で、次のような独自の歴史観を語りました。「戦前の東南アジアは、西洋諸国の植民地支配下にありとても独立国といえるものではなかった。独立してたのは 本書第二部「東南アジア占領地の植民地都市」の節では、日本軍が東南アジアの植民地都市でどのような行動をしたか、多くのエピソードによって「予期せぬ西洋にぶつかって狼狽せざるをえなかった」日本人の様子を描き出す。 1. つづけて 最も大きな変化は、近代化の担い手が日本人=朝鮮総督府に変わったことである。これにより総督府が推し進める諸政策はすべて日本帝国主義の狡知とみなされ、先の二者択一はさらにはっきりしてくる。しかし日本がすすめる近代化=欧米・文明化の中には、たしかに朝鮮の「遅れ」を克服するという性格も含んでいた。 1937(昭和12)年7月7日に起きた「盧溝橋事件」に端を発した日中の武力衝突は、全面戦争となり、泥沼の様相を見せ始めていました※。 1938(昭和13)年末、近衛文麿首相は戦争の目的が日本・満州・中華民国(日・満・華)の三国連帯による「東亜新秩序」建設にあることを声明しました。 1年以上 …  このように日本が近代・文明化という価値を独占し、「遅れた東アジア」の近代化をすすめるというモデル、それが一定の説得力を持つなかですすめられた東アジアの近代化のあり方が存在した。このモデルとの対決のなかでいかに民族的な近代化を実現するか、そのさい植民地当局といかなる位置関係に立つかがつねに課題となった。  このように日本においても、「近代化」や「文明化」は旧来の秩序や体制のなかで生きていた多くの人々の生活と生き方を直撃し、厳しい摩擦や対立を引き起こしていた。そして多くの犠牲者も生み出した。あるものは農村に過剰人口として滞留して寄生地主制のもとにおかれ、製糸・紡績産業での女工、さらには海外にまで進出することになる娼婦「からゆきさん」の供給源ともなった。 それは植民地支配の問題性と近代化のもつ苦悩(とくに資本主義形成期=資本の本源的蓄積期)の問題性が相乗効果をとって出現することである。 それは原材料の供給を主要な役割とする欧米植民地とは対称的である。とくに、本国で重化学工業化が進む一九三〇年代の紡織業、戦時統制経済の進行にかかわる「兵站基地」化でこうした動きが進んだという指摘は興味ある指摘である。 こうして日本社会は一つのパッケージとして植民地都市に導入され、現地住民とは関わりなしに生きていくことも可能な異質の断絶された空間をつくりだした。 日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信とを与えてくれました。永い間眠っていた『自分たちの祖国を自分たちの国にしよう』というこころを目醒めさせてくれたのです。」 資本主義形成期という未成熟な発展段階においてこうした人口を吸収することは不可能であり、流動化された人口は一方では農村に滞留して半失業状態となり、他方では都市などの下層身分・雑業層を形成する。こうした安価な労働力の存在が産業革命の動力となる。
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