まず「序論j では、日清・日露の両戦争の開戦原因について、戦争の必然性を説明してきた旧来の研究、逆にその 偶然性を強調する最近の研究について、後者は前者に対する批判としては説得的であるが、日本がいくつもの道の中 【ホンシェルジュ】 日露戦争が日本の勝利に終わったのは1905年、明治38年のことでした。明治維新からわずか38年で、巨大な軍事力をもつロシアに対し日本はどのようにして勝利したのでしょう。日露戦争の概略を紹介し、より理解が深まる4冊の本を紹介します。 「日清戦争はなぜ起こったのか?」から見てきたことにより、日清戦争発生の流れが見えたと思う。そして、その終わりは戦争の終結ではなかった。それこそが、この後の日本と世界の関係を象徴する本質といえる。まとめてみたので是非ご覧を。 日清戦争とは?原因や結果、結ばれた条約までわかりやすく解説 ... 、近代化を望まず旧来のまま朝鮮を属国にしておきたい清の思惑は完全に決裂、こうして日清戦争へと突入していくのです。 ... 年表順に流れを簡単解説【原始〜現代まで】 24557 views. 制連行の実態について, 戦後70年談話(安倍談話)とは. 最初に、日露戦争が起こるまでの経過を時系列で確認しておきます↓ 時系列を追うと日露戦争は、「朝鮮支配をめぐる日本とロシアとの戦争」であることがわかると思います。 朝鮮は日本に最も近い国です。ここがロシアの支配下に置かれれば、日本列島はロシアからの脅威に対して丸裸になってしまいます。国土防衛のためにも、朝鮮半島をロシアに渡すことは絶対に許されませんでした。 外交で朝鮮をロシアから守れない以上、 … 学校教育では、日清戦争はあまりにあっさりと「日本と清国との戦い」あるいは「日本が朝鮮半島を支配する目的で進出した結果、清国との戦いとなった」という認識で終わる。 しかし、実情は、全く異なる。全くの嘘・あるいは「真実隠し」と言っていい。 日清戦争を深く見ると、そこに至るまでにいくつものステップがあり、その上でのギリギリの決断の戦争だったことがわかる。 そして、その原因と背景には朝鮮半島特有の特性があり、それに対する大国(日本・清国)の状況が絡まって、戦争となっ … 日清戦争 日本軍歩兵の一斉射撃 戦争:明治二十七八年戦役 日清戦争 : 年月日:1894年7月25日 – 1895年11月30日: 場所:朝鮮半島・遼東半島・満州最南部・山東半島東端・黄海: 結果:大日本帝国の勝利、下関条約締結 : 交戦勢力 大日本帝国: 清. 日露戦争は、なぜ起こったの にっしんせんそう 日清戦争で敗れた しんこく 清国が、日本に ばいしょうきん 賠償金を支払うことになると、 おうべいしょこく 欧米諸国は、 清国にお金を貸し、その見返りに、土地や港を長期間借りる けんり 甲午農民戦争というのは、簡単にいうと、日清戦争のきっかけとなった農民運動です。 原因としては、日本人との取引で朝鮮の物価が上がったのが理由です。 そこで農民たちは「減税」と「抗日」を求めて蜂起したのです。 朝鮮では、開国に伴う改革の負担などは、農民に押し付けられた。税は重税になり、農民は貧困になった。このような状況によって、朝鮮の政権や開国への不満が農民たちに高まり、大規模な反乱が1894年に起きた。 減税や、腐敗した役人の追放や、日本をふくむ外国の排除を求める反乱である、甲午農民戦争(こうご のうみん せんそう)が1894年に起きたのである。 この反乱を起こした農民たちの多くが、「東学」という宗教団体を信じていたので、この反乱を、東学党の乱(とうがくとうの らん… 太平洋戦争とは 「1941年12月8日~1945年8月15日」の間に、おもに「アメリカ・イギリス」と「日本」が戦った戦争のことです。 「第二次世界大戦」と呼ばれる世界戦争が、このとき行われていましたが、その一部が「太平洋戦争」なのです。 「1941年12月8日」に、日本軍がハワイ・真珠湾を攻撃。のちにこの先制攻撃は「真珠湾攻撃」と呼ばれることになります。この「真珠湾攻撃」から、「太平洋戦争」は始まりました。 「1942年6月5~7日」、「ミッドウェー海戦」で、 … 日露戦争の戦死者数と病死者数を教えていただき感謝します。その割合が約2割と日清戦争の8割に比べて随分下がっていて、実際の戦闘の激しさが窺えます。 もし日露戦争での脚気による病死者の割合をご存知でしたらご教示いただければ幸いです。 ③ 戦争の犠牲 -日清戦争と日露戦争の比較- 下表は日清戦争と日露戦争を比較したものです。日清戦争にくらべ、日露戦争がいかに規模の大きな戦争であったか、いかに甚大な人的・物的犠牲を国民に強いた戦争であったかがわかるでしょう。 明治27年(1894)1月上旬頃、朝鮮において減税や日本の朝鮮への進出を反対する宗教団体・東学党が東学党の乱を起こしました。 この東学党の乱は朝鮮全土で行われ、対処に追われた朝鮮政府は、従事国であった清国に援軍の要請を行います。 これに対し、日本も居留民保護を目的とし朝鮮に援軍を派遣しました。 この背景として、当時ロシアは東アジアまで支配勢力を拡大しており、朝鮮がロシアの支配下となれば、自国もロシア勢力に狙われる可能性があり、また日本はアジア進出を視野に入れていた … 日露戦争の原因 話はさかのぼり、1894年の 日清戦争 から。 日清戦争に勝利した日本は 下関条約 (しものせきじょうやく)というのを結び、多額の賠償金と土地を譲り受けます。 日清戦争は日本と清国が争った戦争です。戦争をするということは、日本と清国の関係は決して良いとは言えないものでした。 というわけで、最初に日清戦争が起こるまでの日清両国の関係を簡単に確認しておきます。 こうして時系列で見てみると、日本と清国がその間にある国々(朝鮮・台湾・琉球王国)を巡って争い続けていることがわかると思います。 そして、壬午軍乱と甲申事変による朝鮮をめぐる日清の対立を通じて、 … 指導者・指揮官 台湾民主国. 明治27年(1894)8月1日、日本と清国が互いに宣戦布告し、日清戦争が始まりました。その原因、理由を考えてみましょう。 明治維新から四半世紀ほど経った1894年、日本は東アジア随一の大国である清国との戦いに臨みました。朝鮮をめぐって日本と清国が争った日清戦争は日本の勝利に終わります。戦争後、弱体化した清国に対し欧米列強が次々と進出。中国は列強によって分割され半植民地化されました。 日清戦争・日露戦争の要点 対照表 まとめ . こんにちはてぃ~ちゃ~mです今回は#70【中学校社会科 歴史】「日清戦争」を紹介します 今回の動画はこちら ノート用まとめ事大党vs独立党(清の側)(日本側)1884年~甲申事変・・・独立党のクーデターを清軍が鎮圧1885年~天津条約・・・ 日清戦争の原因と流れ: 1882年:壬午軍乱(じんごぐんらん) 朝鮮にて親日派の閔氏らが日本から軍事顧問を招いて改革を行う。それに反対して大院君派(親清派)がクーデターを起し日本人軍事顧問を殺害。 清の出兵により鎮圧。 韓国併合(日韓併合)とは、 1910(明治43)年8月29日に施行された 「日韓併合に関する条約」に基づいて 日本が韓国を領有して植民地化した出来事です。 この条約によって 大韓帝国(当時の韓国)の皇帝であった 純宗は皇帝を辞めさせられます。 長年朝鮮半島を支配してきた李氏朝鮮は この出来事がきっかけで滅亡したのです。 日本による朝鮮半島の統治は 1945(昭和20)年9月9日まで続きました。 ※約35年間 日本が第二次世界大戦で … (日露戦争 出典:Wikipedia) 日露戦争とは、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)に渡って日本とロシアとの間で行われた戦争のことです。 当時ロシアは日本に対して三国干渉や朝鮮へと影響力などを強めており、日本は朝鮮半島と満州の権益を守るためロシアへの攻撃を決定しました。 日露戦争の主な戦争は旅順攻略戦、奉天会戦、日本海海戦がありましたが、次第に日本とロシアは互いに戦争継続が困難となり、1905年のポーツマス条約により戦争は終結しました。 この戦争によって日本は世界から … 戦争の原因 ここでは、なぜ戦争が起こり、沖縄戦になったのかについて回答しています。 [45-戦争の原因-1] どうして戦争をおこしたのですか。 とても難しい質問ですが、最も大切な質問の一つでもあり … 日清戦争の原因がわかりませんについて。高校生の苦手解決Q&Aは、あなたの勉強に関する苦手・疑問・質問を、進研ゼミ高校講座のアドバイザー達がQ&A形式で解決するサイトです。【ベネッセ進研ゼミ … (日本兵による一斉射撃の様子 出典:Wikipedia) 日清戦争とは、1894年~1895年にかけて、朝鮮半島の支配権をめぐって日本と清国が戦った戦争です。 そのため、主な戦場は朝鮮半島、戦争の後半には清国領土で戦うことになります。 勝敗の結果は、日本の圧勝。一方的な展開で日本軍は清国を撃破しました。 その後、清とは講和条約である下関条約を結び、日本は多額の賠償金を手に入れました。 5 つまるところ、日清両国の勝敗を分けたのは、軍隊の性格の違いといえよう。 余談ではあるが、日本軍は日清戦争によって、清国軍=すぐに逃げる弱兵というイメージを抱き、日露戦争後には中国人を蔑視するようになった。 日清戦争(にっしんせんそう)は、明治時代に 日本が初めて経験した外国との戦争です。 日清戦争とは何か? どんな戦争だったのか?などなど 日清戦争について この記事ではなるべくわかりやすく 簡単な言葉で解説していきます。 日清戦争とは? 日清戦争とは 1894(明治27)年7月25日から 日露戦争 1904〜1905年 日清戦争に勝利した日本は、清国に、数百年ものあいだ属国として扱ってきた朝鮮から手を引かせ、朝鮮を独立国とすることに成功しました。 また、この日本の勝利は、それまで清国こそがアジアで最も力のある国であると認識していた欧米列強に衝撃を与えました。 どちらの戦争も1年前後の短期間で終結しています。 日清戦争では日本が勝ちましたが、日露戦争では、どちらも国内の事情で戦争を続けることがむずかしくなって講和しました。 今日から日清戦争だぜ! 日本が清に勝った戦争!それが日清戦争!おしまい!なんて簡単な勉強法だとすぐに忘れてしまうからな。 日本が清に戦争をしかけた理由だったり、諸外国との関係性ってのも頭に入れておいて欲しいの。 これよりシリーズで日清戦争についてまとめたい。 日清戦争はなぜ起こったのか?そもそも、日清戦争とはどのような戦争だったのか?、それは不自然なほど我々は教えられていない。理由は、China(中国)(中国共産党)・朝鮮半島に都合が悪いからと思われる。 日清戦争は明治27年の1894年に起こり、翌年には終わっている。実はここから日本の「大東亜戦争」までの道が始まっているとも言える。学校でもマスメディアでも「あえて」詳しく取り上げない「日清戦争」についてまとめてみたので、是非ご覧を!, 学校教育では、日清戦争はあまりにあっさりと「日本と清国との戦い」あるいは「日本が朝鮮半島を支配する目的で進出した結果、清国との戦いとなった」という認識で終わる。, 日清戦争を深く見ると、そこに至るまでにいくつものステップがあり、その上でのギリギリの決断の戦争だったことがわかる。そして、その原因と背景には朝鮮半島特有の特性があり、それに対する大国(日本・清国)の状況が絡まって、戦争となっている。そして朝鮮半島特有のその原因(背景)は、基本的には現在も変わらず、もっと言えば古代から変わっていない。それでもこの時に「戦争」とならざるを得なかったのは「欧米列強のアジア植民地化」がものすごいスピードで進んでいたという、当時の時代背景があった。アジアでは日本のみがその脅威に対して真摯に向き合い対抗しようとしていた。, こうして流れを見ると、改めて、明治政府樹立後の初めての対外戦争が「日清戦争」であったことがわかる。そしてその勝利は、次の日露戦争への要因となる。そしてそれも勝利した後に日本はアジアで唯一の「列強」となり、第一次世界大戦にも参加する。あくまで「日英同盟」のためにであったが、それによりますます欧米との距離が開き、欧米は警戒感を高める。更に仲間となるはずのアジアでのChina(中国)・朝鮮半島の日本に対する無根拠な敵意はかわらず、一方で日本が日露戦争により得た満州の支配は、China(中国)だけでけでなく欧米、特にアメリカも大きく注目していた。, かくて、その満州での「盧溝橋事件(昭和12年:1937年)」から発する「支那事変(日中戦争)(昭和12年:1937年)」が勃発。それが進んだ結果、英米への開戦となる「真珠湾攻撃」・「マレー攻撃」が行われ、一気に「大東亜戦争」そして「第二次世界大戦」へと進むこととなった。, すこし話がそれるが「支那事変」は今では「日中戦争」と教えられるように強制されている。これは中国共産党による要請であるが、全くの嘘の言葉である。当時「中国」はない。清王朝が倒れ、動乱があっただけの状態だった。かろうじて蒋介石の「中華民国」と毛沢東の「中華人民共和国」という集まりがあったが、国名でも何でも無く定義もない。清国が倒れてまともな中央政府がなかった。日本は宣戦布告する相手すらいなかった。「国」がない上に「中国」という相手もいないのだから、「日中戦争」の「日中」も嘘だし「戦争」も嘘である。支那で起こった「事変」程度のものがずるずると続いたというのが真実である。であれば「支那事変」と言わないと嘘となる。, 非常に駆け足で、大分飛ばして記述したが、第二次世界大戦への流れはざっくり言えばこのようになる。日本におけるどの戦争・事変も、すべてその複線となっていて、国際政治の中でそれらを利用した結果としての「大東亜戦争」といえる。, その最初であり発端が「日清戦争」なのである。この戦争とそれに至る背景をしっかり理解することで、その後の戦争の流れの見方も大きく変わってくる。, 日清戦争は簡単に伝えられているだけでなく、明らかに曲がって教えられている。真実を知られると困る勢力がいるとしか思えない。学ぶとすぐに矛盾だらけに気づき、現在の教育やいわゆるマスメディアに出てくる論調の「浅はかさ」がすぐにわかる。そして、その「嘘」あるいは「誤解」を見ることで、日清戦争の概要が見えてくる。特に3点、ここではっきり整理しておきたい。, よくいわれるのが、『江華島事件(明治8年:1975年)で日本が挑発し、結果的に朝鮮支配を目指したために清国との戦争になった』、というものである。, しかし、これは当時の政治情勢から考えてもまったくあり得ない。もともと明治政府はまだ廃藩置県も終わっていない時期に、他国を統治するなど本気で考えることは有り得なかった。清国と「日清修好条規(明治3年:1871年)を結んで、清国との外交を始めていることから上げられる。そもそも、日本一国では欧米に対する国力は全く歯が立たなかったため、明治政府はとにかく、支配されているアジアと共に欧米に当たる方向性で考えていた。, しかも、それはまだまだ幕末が終わったばかりの段階の話である。まったく政府には金もなく、内政の整備に手一杯の時期だった。朝鮮との「日朝修好条規」は締結に手こずることになりその5年後になる。その時に「江華島事件」で挑発したのは正しいが、その目的は「侵略」などではない。はっきり言えば、当時の朝鮮そのものに「侵略」するほどの魅力のあるものは何もなかった。産業もなく民度も低く、統一した支配層もいない状態である。そして明治政府には全く余裕が無かった。しかしとにかく、列強特にロシアへの対抗をどのようにするか、ただそれだけであった。その上で、朝鮮半島という地域がどうしても重要だったのである。, 日清戦争は、どうも「日本と清国」との戦争のイメージが強いために、清国と北京や香港あたりで戦った、というイメージが強いが、全くそれは誤解である。, 添付した図の通り、すべて朝鮮半島・あるいは満州近くである。そこからも、決して日本がアジアを支配すべく出兵したためではないことが見える。国と国ではなく、あくまで局所的な戦いである。度重なる条約違反を清国も朝鮮も行い、更に列強がどんどんアジア支配を強める中で、日本の国家そのものの存続が、地政学的に重要な朝鮮半島にあると考えられていたからである。しかも、その朝鮮半島の支配者が、後述する「大院君(だいいんくん)」・「閔妃(びんひ)」が、あまりにその当事者能力がなく無責任で民衆を無視した政治を繰り返して地域そのものの不安定が問題となっていたのである。, それが原因であり、それを象徴するかのごとく、日清戦争の舞台はすべて朝鮮半島である。もし間違えて清国との戦争で清国(China(中国))で戦争したと記憶していたら、大きくその発想を変えないと、真実が全く見えなくなる。, ここで「日清戦争」では日本は比較的容易に勝った、という誤解は、相当広まっていると思う。私も、社会人になって歴史を見直して初めて知ったことの一つである。, 事実は全く違っていた。いくらアヘン戦争等で「眠れる獅子」と呼ばれた清国が落ちぶれても、アジアでは唯一絶対の存在であることは、特に欧米や他のアジア国からは当たり前の感覚だった。日本ですら「中国は日本より優れている」思い込んでいたのは、明治や戦前どころの話ではない。江戸時代や平安時代ですら、やはりChina(中国)に対する大きな憧れは持っていた。また、船の数等、実際に国力は明らかに清の方が上だった。, それほどの清国と戦うことは、日本もできる限りやりたくなかった。近代国家として歩み始めたばかりで、更に「大日本帝国憲法」が出来たばかりで議会と内閣との争いは混乱に混乱を来し、憲法停止すらささやかれるほどであった。だからこそ、清国も日本に挑発してきて(長崎事件)、更に日本の新聞も世論を煽(あお)った。その急先鋒は朝日新聞であった。それでも自重した上で、考えに考え抜いた開戦であった。それほど清国との戦争は大きな国の決断だったのである, 結果だけみれば日本の圧勝だったが、それは明らかに敵の失敗に寄るところが大きく、日本は「運良く」勝ったに過ぎなかったのである。, 明治の中で、日清戦争が起こったのは、ようやく産声を上げた「大日本帝国憲法」が生まれてすぐである。大日本帝国憲法が明治22年(1889年)に発布されたその5年後の明治27年(1914年)に日清戦争の勃発となっている。, こうしてみると、日清戦争自体は明治中期に起こっているように見えるが、その火種は既に明治政府成立間もない頃から、大きな政治課題になっていた。「征韓論」と名付けられたすり替えれた議論となり地政学的に重要な朝鮮半島への対処は内政にも大きく影響した。。「征韓論」とは西郷隆盛の意図と離れいろいろ言われるが、典型的には韓国を武力で制圧する議論の事と言われる。西郷隆盛が木戸孝允・大久保利通と袂を分かつこととなった「明治6年の政変」など、まさに朝鮮半島に対する扱いが原因であった。, また、同じく明治6年に結ばれた「日清修好条規」は日本として初めてアジアとの連携を模索し始めた最初の条約だったが、これが導火線の一つとなり、その後の日清戦争を引き起こすこととなる。また、明治政府設立間もない頃から、当時朝鮮半島の支配層であった「李氏朝鮮」の李氏は、まったく国のことなど考えず、世界情勢の認識もなかった。結果、日本という清国より遠い国に対して対等に話すことはない、という態度であったため、ことごとく日本の使者に対しての無礼を働いていた。「征韓論」なるものが日本の政治の中で高まっていった背景には、多分に朝鮮半島の支配層の当時の世界観と日本のギャップ、そして歴史的にもどっぷりはまっているChina(中国)への「華夷思想(かいしそう)」により、China(中国)に対する属国意識から全く抜ける事が出来ていなかった朝鮮半島支配層へのいらだちがあった。こう書くと、今現在も何ら変わらないように思うが・・・。, 明治の初期から維新政府は国境の確定を急ぎ進めた。これをはっきりして初めて国防が成り立つという観点は、開国間もない日本であってもすでにその意識を持っていた。そこで、矢継ぎ早に進めている。, 年号を見てもらえれば、如何に明治政府が国境を定めることに腐心していたことがわかる。台湾出兵や江華島事件など、かなり強引な手法も含めてだが、とにかく近代国家設立のため、非常にタフな交渉を実施してきた。, こうした日本の国境確定で、当然衝突するのは隣国になる。ロシアとは、榎本武揚が首尾良く条約をまとめた。, しかし、当然ではあるがここから隣国との軋轢が生まれる。もともと、アジア地域では「空白地帯」について国境という概念がなかった。どちらも「空白地」としていたが、近代国家の建設において国境を画定することが必要とされた。, このような近隣の国際情勢の中で、日本はついに「大日本帝国憲法」を制定するに至る。これにより「近代国家」の一員として大きく名乗りを上げることが出来た。しかし、あまりに先進的かつ民主的なこの「大日本帝国憲法」下では、ドイツのビスマルクさえ「(先進的すぎて)大丈夫か」というほど、議会の力が強かった。当時で、予算の拒否権が与えられている憲法などどこにもなかった。, しかし、今と変わらず野党は勝手なことを言って、清国に対する「弱腰外交」と批判する一方、「予算は緊縮で」という国民に耳障りのいいことしか言わなかった。一方で朝鮮半島を巡る緊張と清国との一戦は避けられない状態になっていった中、議会の混乱は憲法スタート時にもかかわらず、いやだからこそ、ひどい物だった。, ただ、ここで特に伊藤博文公を中心に日本の行政側(薩摩・長州)の覚悟と団結は、「清国との戦争」の決意の中で醸成(じょうせい)されていった。日清戦争当時は、日本の議会は紛糾に次ぐ紛糾で、それをみて清国は「戦争などできるはずがない」と高をくくっていったようである。しかし、それを見事にはねのけ団結させたのは、伊藤博文公の「第二次伊藤内閣」であった。, 後に「長州の三尊」といわれる長州の伊藤・井上・山縣の3人がそろい踏みで内閣にいる。また、後の最後の元老となる「西園寺公望(さいおんじきんもち)、後の日露戦争の陸軍の英雄「大山巌(おおやまいわお)」、元内閣総理大臣の「黒田清隆(くろだよたか)」・「松方正義(まつかたまさよし)」など、そうそうたる顔ぶれであった。「元勲内閣」ともよばれ、だれが首相をしてもおかしくない程の陣容で「日清戦争」に臨んでいた。逆に言えば、それほどまでに国内・国外とも緊迫した状況でギリギリの開戦であったのである。, ここでは、当時の列強の状況を簡単に押さえておきたい。明治という時代を見る上で、世界情勢の認識なしでは、全く知識不足となってしまう。, 明治時代すなわち19世紀の中盤から後半と20世紀初頭にかけて、世界の列強はまさに「帝国主義」むきだしであった。産業革命により軍事・産業の発展を遂げた後は、むき出しの植民地主義に走っていた。この頃の5大国と言えばそのままヨーロッパの5強を指し、最強のイギリス、2番手にロシア、そしてフランス、オーストリア、そして発足間もないドイツ連邦であった。これに加えて、アメリカという新興国が南北戦争を終えたことで、一気にその力をつけて植民地支配に乗り出していた。植民地支配と言っても生やさしい物ではない。ほとんど人を人と見なさず、残虐の限りを尽くしている。それらについては、またいずれ触れたいが、興味のある人は是非調べてほしい。, そしてその頃はまさに、王政の最後とも言える王政の全盛期だった。イギリスはヴィクトリア朝といわれる全盛を築いたヴィクトリア女王、2番手のロシアは結果的にロシア革命で惨殺されるニコライ2世、後の第一次世界大戦の原因とも言える人種差別主義者のドイツのヴィルヘルム2世、またオーストリアのヨーゼフ1世、などがヨーロッパの支配体制であった。フランスは、ナポレオン3世を経て共和制に戻ったため、この当時は王はいない。そして、アメリカの大統領はマッキンリー大統領であったが、この後暗殺される。そしてアジアでは、日本は当然明治天皇であり、清国は実質的な皇帝という意味で西太后をあげるべきであろう。こうした情勢の中で、欧米列強はどんどんアジア進出を始めていた。, 植民地化のアジアの中で象徴的なのが、「清国の半植民地化」である。図にあるとおり、清国はほとんど国の体を為さなくなってきていた。実際に、この後「辛亥革命(1912年)」により清国という王朝は消えて亡くなる。しかし、欧米の飽くなき植民地への渇望は決して、イギリス・ロシアだけではなかった。乗り遅れたとばかりに、アメリカが超大国になりつつある頃であった。, こうした世界情勢の中で、日本は独立国たる道を行くためにがむしゃらに進んでいた。「内戦」に近い状態になってでも、議論を尽くしながら国の方向性を模索していた。その中で「日清戦争」があるのである。, 清国は確かに、世界的に見ても超大国であったことは間違いない。欧米から「眠れる獅子(しし)」と呼ばれ、一定の畏怖(いふ)の念を持たれていた。それが、「アヘン戦争(天保11年:1840年)の敗北、その後のあまりにひどい国情に欧米はその植民地化を加速していった。欧米は、とにかく産業革命による生産量の増加に伴う市場を求めていた。, そして清国は、もともと漢民族ではなく満州族により立てられた国で、有力な皇帝を輩出し全盛期にはかなり広い版図を誇っていた。しかし、この頃にはその広い版図を統治する程の力は無く、また、皇帝の咸豊帝(かんぽうてい)が1861年に30歳で早くに亡くなると、その後50年にも渡り清国を動かしたのは、その皇后である西太后であった。, この西太后が、「中国三大悪女」の筆頭としてあげられるほど、残虐で嫉妬深く策謀にかけては巧妙であった人物である。この西太后の下で政治は大いに乱れ、部下は国に対して忠誠心を尽くさなくなった。日清戦争でも指揮をとる袁世凱(えんせいがい)、その弟子にあたる李鴻章(りこうしょう)などの名将と呼ばれる人はいたが、あくまで個人であり、国としてのまとまり・忠誠心は全く無かったのである。それが、国力で圧倒的に劣る日本が日清戦争で勝てた最も大きな要因といって良い。, そして、朝鮮半島に関してはほとんど「国」と呼ぶにも難しいほどの状況だった。統治といっても、最も有力な支配層が「李氏(りし)」ではあったが、まともな軍隊もなく民に施策を講じる事なども特になく、ただ、搾取の対象としての国民があっただけであった。人権はなく、「チュリの刑」といわれる筆舌に尽くしがたい拷問は、日本統治前まで行われていた。この背景を理解しないと、朝鮮の支配層がなぜ簡単に自国民を裏切り他国にすがり、そして巻き込むのか理解できない。つまり、自国民を単なる労働や搾取の対象としてしか見ていないため、それを統治するとすら考えていないのである。, そしてそれは、中華も基本的に同じである。朝鮮半島は、あくまで中華の属国として「華夷思想(かいしそう)」のもとChina(中国)を絶対視する方向性であった。その行き着く先が「事大主義(じだいしゅぎ)」である。「小が大に事(つか)える」という語源は、強い勢力に付き従うという考えで、古くから基本的にはChina(中国)を対象としている。今も同様である。, その朝鮮において、当時実権を握っていたのが「大院君(だいいんくん)」である。彼はバリバリの「鎖国派」であり、とにかく外国からは逃げて逃げて逃げ続けたい、という考えの下の人物だった。そして、もう一人の重要人物が大院君の息子の「高宗」の妃である閔妃(びんひ)である。この閔妃が、規模は小さいが西太后と引けを取らないほどの横暴ぶりで、政治を切り盛りしていった。夫であり皇帝である高宗はもともとそうした力は無く、それをしる閔氏は自分の一族をどんどん政治に入り込ませ、専横の限りを尽くした。そして、高宗(閔妃)と大院君との争いが、清国と日本を巻き込んでの大問題となる。当然国民も当惑し反乱することがあるが、強烈な身分制度が根強い朝鮮半島で、大きな力にはなり得なかった。, なお、私は韓流ドラマはまったく見ないが、この手のドラマを見た研究者があまりに嘘ばかりで辟易したという。なお、添付した「閔妃」の画像も信憑性は薄いという説もある。あまりに嘘の上塗りで歴史がわからなくなってきているのが韓国の実情である。ドラマのストーリーはもちろん、服装などの時代考証から人物像から、何から何までファンタジーで当時に「王朝」とよべるほどの存在は朝鮮にはなく、あくまで「華夷思想」に基づく支配層が「李氏」であった、ということである。リーダーのいない地域ほど不安定な物はなく、日本の難しさと不安は、そこに大きな原因があった。, これまで全体の概要を述べてきたが、日清戦争に至るまでの具体的な流れをまとめた表が下記である。, 一つは、先ず明治の早い段階に結ばれた清との「日清修好条規(明治4年:1871年)」と、その5年後となった朝鮮との「日朝修好条規(明治9年:1876年)」である。前者は日本で初めて結んだ対等条約であり、アジア国家間の大きなステップであった。一方後者は、今まで国として扱われていなかった朝鮮を「国」として扱って条約を結んだ、朝鮮にとっても画期的な物のはずのものであった。しかし、この間が5年間もかかっているところが、朝鮮の面倒なところを表している。, そしてもう一つは、朝鮮半島の内部の3つの内乱である。それに日本と清国が関与していく形で巻き込まれていった。, 簡単に書いたが、これを見ても戦争の経緯がさらっとわかると思う。次回以降で、それぞれを詳しく見ていきたい。, 今回は、日清戦争の時代背景の全体の説明と、そこに至った経緯を簡単にまとめた。次回以降で、より詳しく見ていきたい。, 今回を見てもらっても気づくと思うが、「日清戦争」という戦争に至るまでに過程がいくつもある。その中で、先人達はベストを考えながら選択し、結果的に、勝利も見通せない「日清戦争」に踏み切った。近代日本の初めての戦争で、憲法も発布されたばかりで、相当な決断だったと思う。「過程」を見ていかないと、その「結果」までが理解できないことが多い。またその「過程」をみると、戦争に至った理由もうなずける。, 皇室報道の嘘と真意を探る!~皇室破壊が目的の「女系天皇」・「女性宮家」と秋篠宮バッシング~, メールアドレスを記入して購読登録をすれば、新規記事をメールで受信できます。登録解除も受信メールから簡単に出来ます。興味あれば、是非ご登録ください!, 実はここから日本の「大東亜戦争」までの道が始まっているとも言える。学校でもマスメディアでも「あえて」詳しく取り上げない「日清戦争」, 日清戦争を深く見ると、そこに至るまでにいくつものステップがあり、その上でのギリギリの決断の戦争だったことがわかる。, 「国」がない上に「中国」という相手もいないのだから、「日中戦争」の「日中」も嘘だし「戦争」も嘘である。, 日清戦争は簡単に伝えられているだけでなく、明らかに曲がって教えられている。真実を知られると困る勢力がいるとしか思えない。, 『江華島事件(明治8年:1975年)で日本が挑発し、結果的に朝鮮支配を目指したために清国との戦争になった』, はっきり言えば、当時の朝鮮そのものに「侵略」するほどの魅力のあるものは何もなかった。, そして明治政府には全く余裕が無かった。しかしとにかく、列強特にロシアへの対抗をどのようにするか、ただそれだけであった。, それでも自重した上で、考えに考え抜いた開戦であった。それほど清国との戦争は大きな国の決断だったのである, 「征韓論」なるものが日本の政治の中で高まっていった背景には、多分に朝鮮半島の支配層の当時の世界観と日本のギャップ、そして歴史的にもどっぷりはまっているChina(中国)への「, あまりに先進的かつ民主的なこの「大日本帝国憲法」下では、ドイツのビスマルクさえ「(先進的すぎて)大丈夫か」というほど、議会の力が強かった。, 伊藤博文公を中心に日本の行政側(薩摩・長州)の覚悟と団結は、「清国との戦争」の決意の中で醸成(じょうせい)されていった。, この西太后が、「中国三大悪女」の筆頭としてあげられるほど、残虐で嫉妬深く策謀にかけては巧妙であった人物である。この西太后の下で政治は大いに乱れ、部下は国に対して忠誠心を尽くさなくなった。, この閔妃が、規模は小さいが西太后と引けを取らないほどの横暴ぶりで、政治を切り盛りしていった。, リーダーのいない地域ほど不安定な物はなく、日本の難しさと不安は、そこに大きな原因があった。, 今まで国として扱われていなかった朝鮮を「国」として扱って条約を結んだ、朝鮮にとっても画期的な物のはずのものであった。, その中で、先人達はベストを考えながら選択し、結果的に、勝利も見通せない「日清戦争」に踏み切った。近代日本の初めての戦争で、憲法も発布されたばかりで、相当な決断だったと思う。, 10月9日に新しい記事をアップしました!今、自動車業界でキーワードとなっている「CASE革命」を取り上げました。是非、ご覧を!, 10月4日に新しい記事をアップしました!武漢コロナからいつ解放されるのか?きっかけを考え待ています。是非、ご覧を!, (1) 『日本が侵略目的で朝鮮半島に進出した』というのは、事実を全く捉えていない嘘, (2) 日清戦争の舞台は清国(China(中国))ではない!あくまで朝鮮半島であり、それ以外の場で行われていない, (3) 『日清戦争は「楽勝」』などでは全くなく、当時反対論も大きかった中で必死で戦い、清国の失策があってかろうじて勝利できた, 「インビクタス ~負けざる者たち~」から見るマンデラ大統領(故)とラグビーワールドカップ. 明治維新後、日本は25年かけて近代化していく。その間、国内政治は総辞職やテロが連発し、大久保利通は頭蓋骨をカチ割られメッタ刺し、大隈重信は爆弾テロで右足が吹き飛ぶ。警察官が来日中のロシア皇太子を斬るなどもう、ムチャクチャである。
2020 日清戦争 原因 簡単に